f1のミカタ

クルマのテクニカルなことはあまりよく分からないF1ファンに読んでもらいたいブログを目指しています

稀代の不遇なF1ドライバー ニコ・ロズベルグ

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今シーズンは開幕から強さを見せつけているニコ・ロズベルグ

でも、このドライバーに対する周囲からの目は冷ややかだ。いつまでもルイス・ハミルトンに勝てないと思われている。

 

どうしてこんなに評価が低いのだろうか。

 

完全優勝の中国GP

2016年シーズンは、誰もが予想だにしなかったであろうニコ・ロズベルグの開幕三連勝で始まることになった。
 
一 度リタイアしてもまだランキングでは首位でいられる差をわずか3戦でつけている。まさに独走だ。ロズベルグが常にMAXポイントを稼ぎ出してる一方で、追 いかける側が何かとドタバタしている3レース。森脇さんも言ってたが、ロズベルグは「レースをしていない」くらい、独走で勝利。
 
予選も完璧だった。ハミルトンのギアボックス交換による5グリッド降格ペナルティがはじめから分かっていたとは言え、ロズベルグはスタートタイヤになるソフトタイヤでQ2最速タイムをマークし、最終的に2位のダニエル・リカルドにコンマ5秒以上の差をつけた。
 
そしてレース。スタートでこそリカルドに先行されたものの、そのリカルドがタイヤバーストで後退した後は、セーフティーカー再スタートも決め、ほとんどテレビに映ることもない程危なげないレース運びで勝利。2位のベッテルに30秒以上の差をつけての勝利。
 
まさに完勝だった。

 

開幕3連勝したらチャンピオン

開幕3連勝したドライバーを振り返ってみると、実は2004年のミハエル・シューマッハまで遡ることになる。
その他、2000年(シューマッハ)、1996年(デイモン・ヒル)、1994年(シューマッハ)、1992年(ナイジェル・マンセル)、1991年(アイルトン・セナ)というのがここ四半世紀での開幕3連勝のシーズン。そうそうたるメンバーだ。彼らはいずれもその年のチャンピオンになっている。
 
スタートの失敗、PUトラブル、ペナルティ、同士討ちなど、追いかける側のドタバタのおかげもあるけど、ミスを犯さずやるべきことをやった結果がこの3連勝だ。後ろを見てペースをコントロールしてが故にレースをしてなかったというが、それをできる位置に自分を持っていったということで、ロズベルグがどの他のドライバーよりもうまく中国GPを過ごした証明でもある。森脇さんがロズベルグを走らせているチーム監督ならそう言うに違いない。
 
なのに、どうして「今年はロズベルグが素晴らしい」ということにならないのだろうか?
まったく不遇のドライバーの一人である。
 

彷彿させるのはあのドライバーのこと

ロズベルグのへのこんな扱いで頭に思い浮かんだのは、デイモン・ヒル。
ご存知イギリスの二世ドライバーで、1996年に見事親子二代ではじめてワールドチャンピオンになったドライバーである。
 
ヒルもチャンピオンになる前は、かなり低く見積もられていた。F1ファンや報道だけでなく、チームからもそういう扱いを受けていた、相当に不遇のドライバーだった。
 
簡単にヒルの不遇さを綴ってみる。
 
1994年、アイルトン・セナの死によっていきなり表舞台に引っ張り出された、本格デビュー3年目のドライバー。チャンピオンシップ独走のシューマッハを止めるべく、FIAの協力のもと、最終戦を1ポイント差で迎えたが、意地のシューマッハによる疑惑の突撃で初戴冠を許す。
 
その翌年、より洗練された最速マシンでチャンピオン奪取に臨む。ヒル本人もウィリアムズのNO.1ドライバーの自覚を持っており、チームの期待も高かった。
序盤戦はリードしていたが、中盤からシューマッハの強さが際立ち始め、終盤にはチームメイトのクルサードの台頭に押され気味になりチャンピオン獲得への勢いは明らかになくなる。そして二年連続でチャンピオン奪取に失敗する。
 
1996年は、シューマッハが戦闘力の劣るフェラーリへ移籍、新たにチームメイトとなったジャック・ビルヌーヴは、インディチャンピオンとは言え新人。FW18はシーズン前のテストから抜群の速さを見せつけていたため、開幕前からヒルはチャンピオンの本命だった。「負けるはずがないだろう」という皮肉めいた見られ方までされていた。
 
開幕戦でのビルヌーヴのポールポジションとあわや優勝という大活躍はありながら、ヒルは序盤から勝ち星を重ねて、当初の予想どおりチャンピオンシップをリードしていく。しかし、シーズンも終盤に入るイタリアGPで、ウィリアムズはハインツ・ハラルド・フレンツェンの加入とヒルの解雇を発表する。その年で撤退するルノーの次に獲得を目論んでいたBMWエンジンのための決定だった。
 
中盤から徐々にビルヌーヴの追い上げられていたヒルは孤立することになったが、最終的にチャンピオンを獲得。親子二代によるF1チャンピオンを達成し、カーナンバー1を携えてアロウズへと移籍していくのだった。
 

タイミングと居場所が、すごく大事なF1

こうして思い返してみると、ヒルの置かれていた状況はあまりにも不憫だ。自分だったら、絶対ポシャってる。
 
F1で成功するには、いかに正しい時期に、正しい場所にいるかが問われるが、ヒルは当時うねりが激しい場所にいたということになるだろう。
 
ロズベルグも同様に、今年を迎えるにあたっての状況は良くなかった。
 
GP2の初代チャンピオンになって、親の七光りではなく実力でF1に上り詰めた後は、常にチームメイトよりも速く、確実に評価を高めていった。メルセデスではシューマッハに引導を渡し、いよいよチャンピオンを撮りにいくところで状況が一変した。
 
予選は速いがレースで勝てなかった2014年。その翌年は強みの予選でさえもハミルトンに敵わず、ベッテルの追い上げをかわすのに精一杯だった。一方のハミルトンは3度目のチャンピオン戴冠で、速さだけでなく強さの称号を得て、歴代の偉大なチャンピオンたちと肩を並べる存在だと自他共に認められた。
 
世間は、最速のクルマに乗っている二人のドライバーのうち、遅い方は「明らかな敗者」だと分かっているのだ。F1の世界では、もはや経過は大事なことではない。結果が求められ、結果しか残らない世界なのだ。
 
ロズベルグが今の境遇をひっくり返すには、今年チャンピオンになるしかない。1ポイント差でも、チャンピオンになるかならないかは事を大きく隔てることは過去が証明している。
 
ドライバーとしてF1まで登りつめ、そこそこの成功を喜ぶのであれば今のままでもいいだろう。しかし、大抵はそういうことを許す類の人間ではない。とことんストイックに、チャンピオンになるために不要なことは何もせず、必要なことしかしないくらいの姿勢で臨めば、現状のチャンスを最大限生かせるはずだ。
 
ハミルトンに打ち勝って、新たな局面を見出してほしい。
それがF1を活性化するはずだ。
 
 
 

F1の予選はスタートグリッドを決めるためのものだけじゃない

f:id:Hacienda:20160402071417j:plain手に汗握る予選なんて稀だ

二週間前のオーストラリアGPで露見した、新予選フォーマットの正体。
とても残念過ぎる結果だった世界中が失望した。
 
でも、ああいった形の予選が展開したことに、筆者はそれほど残念には思わなかった。
 
なぜかって?
これまでだって、盛り上がりのない予選を何度見てきたことか。今回もそのうちの1つに過ぎない。
 
アイルトン・セナナイジェル・マンセルミハエル・シューマッハがポールを獲るだろうと分かっていた時期もとても長いし、誰がポールを獲るのか分からないという状況なんてそれ程多くはなかったのがF1の予選だ。インディじゃない。
 
今回は突然ど運輸されることが分かった新しい試み、それもおもしろくなるのかどうかが疑問視されていた試みという事情があったので、いつも以上にみなが注目していた。それ故、あんな終わり方に過剰な反応を示しただけだと思っている。
 

じゃあ、どんな予選にすればいいのか?

筆者としては、まず予選を一つのイベントとして確立するのがいいと考える。

 
数年前から、決勝のための予選という概念が植えつけられたおかげで、本当の最速が誰なのか?どのクルマなのか?が分からなくなった。決勝を見据えた予選だから、なおさらグリッド順が結果を左右することになる。
 
セナが最速の称号を得られたのは一周の速さでは敵がいなかったからだ。プロストがプロフェッサーの異名をとったのは、他のみんなが最速を争っているときにただ一人決勝を見据えていたからだ。すべては予選が一つの独立したイベントとして成立していたからだ。
 
その形に戻してみたらどうか。
 
予選用タイヤの復活。
タイヤの使用制限なし。
決勝用セッティング変更と給油を可能にすることで、完全予選セッティングで真の速さを競う。
 
ルイス・ハミルトンがコメントしているような、何も気にせずドライバーがアクセルを踏んでいける状況をつくることが、F1を魅力あるスポーツにしてくれるはずだ。
 
そこに新しい要素を加えるとすれば、ポイントを付与。
最終的なグリッドで決めるか、経過時間での順位でもいいだろう。これなら独立したイベントにもなるし、決勝のための予選にもなる。
 
要はドライバーの本気の走りを見せることができるかどうかにかかっているのではないだろうか。
 
そんなことを考えながら第二戦バーレーンGPを見ていきたい。
 

解説者は予想するのが仕事じゃない

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静かなF1放送

静かだな、と感じた。
でもこれは表現が正確じゃない。
 
よく聞こえるといった方が正しいか。
 
初めてこの目で2016年の新車が走るのを見る機会だったから集中していたせいもあるかもしれない。でも、このレースで最初のチームラジオが放送されたとき、そういえばこれまでまったくラジオが入らなかったな、と気づかされた。
 
2016シーズンの大きな変更の一つである、ピットとドライバー間の無線の制限。この規制のおかげで、やたらめったらドライバーの訴えやピットからの指示といったチームラジオが放送される機会がなくなった。
 
解説陣が話すのを止めているとき、サーキットの生音が耳に入るようになった。
ブレーキングでタイヤが軋む音やドライバーのアクセルワークに反応するPU音、リカルドが通過したときに観客が沸く音。
それらはすべて筆者にライブ感を与えてくれた。
 
そのことがきっかけで考えたのはモータースポーツのテレビ解説に関して。
 

解説なしでレースを楽しめる?

モータースポーツをテレビで観戦するとき、解説はとても重要だ。
普通では知りえない情報を提供してくれることで、視聴者に観戦に幅と深さを与えてくれ、おもしろみが増すからだ。これはモータースポーツに限らずどのスポーツでも言えること。
 
一方で、解説付きの観戦の仕方に我々が慣れ過ぎてしまっているのではないか。ありのままのF1を楽しめなくなっているのではないだろうか。そんなことが頭をよぎった。
 
 
日本のF1放送が始まって30年。
放送開始当初から川井一仁氏のマニアックな解説を母乳にF1ファンは育ってきた。
加えて、90年代中盤以降はF1が、より戦略的なゲームに成長してきた。
それだけに、データに裏付けられた川井一仁氏の解説は度を増していった。
 
最近では彼のおかげでレース前から結果が分かるようになってしまった。マシンの性能、特性、タイヤという要素があればレース展開も、順位も予想してくれる。視聴者は彼が予測することが正しいかどうかの証人にさえなればいいわけだ。
 
実況の小穴氏やもう一人の解説者片山右京氏がちょっと的外れなことを言うと、「ナニイッテンスカ?」という反応をし、彼のデータに裏付けられた正しい推察を押しつける。言葉の裏にある「ウキョウサン、アナタ モト ドライバー ナンダカラ、ソレクライ ワカッテヨ」を感じざるを得ない。
 
解説者じゃない。予想屋だ。
そんな解説に支配されているレース中継では、もはやレースは見られない。
 
 

順位だけが大事なんじゃない レースが見たい

ニコ・ロズベルグがピットインしたとき、キミ・ライコネンをアンダーカットできることを指摘するよりも、どうなるか結果を視聴者と一緒に見てほしい。
 
赤旗の後、セバスチャン・ベッテルが勝てないことを指摘するよりも、プレシーズンテストでスーパーソフトを試してきたベッテルフェラーリと同じくテストでミディアムでひたすら走り続けたロズベルグメルセデスがどうなのかを教えてほしい。
 
誰が、何周目にピットインして、誰の後ろに戻って、どういう戦略だから、このレースは何位でゴールするなんてことよりも、画面に映ってないドライバーの走りや順位争いをカバーしてもらいたい。
 
ファン自身が想像力を働かせられて、ファンがレースそのものを楽しめる手助けがほしい。
 
 
一般の人たちの想像を超える乗り物、F1。想像を超えるからこそファンは惹かれる。
レース結果を先読みすることが魅力を伝えることにはならない。一般の人たちには想像もつかない「すごさ」を魅力として伝えてもらいたい。
 
F1が人気回復のために試行錯誤を繰り返し、いくつも対策を試みている。テレビは世界中のファンとこのスポーツをつなぐ大事な役割を担っているんだから、その自覚を認識して、もっともっと一生懸命考えてほしい。

オープニングGPにすっかり定着したアルバートパーク・サーキットに思うこと

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 最終コーナーが一番見どころあるかなぁ

開幕戦の舞台としてすっかり定着しているアルバートパーク・サーキット。ここでF1が開催されるようになって今年で21回目になると知って驚いた。

 

なんせ筆者の中にとってはオーストラリアGPといえば依然としてアデレードなので、アルバートパークはまだ「最近加わった」サーキットだったからだ。

四半世紀近くもアルバートパークとなると、逆にアデレードでやってたことを知ってる人の方が少ないのか…

 

クルマもドライバーも何もかも新たになって、0から始まる機会だから、一人のF1ファンとして期待も十分に視聴に臨むグランプリ。テレビに映るすべてに目を凝らす。だから他のサーキットで開催されるグランプリよりも印象は強い。

 

アルバートパークで気に入っているのは、最終コーナー。

初めてレース仕様で走るのを目にする者として、このコーナーの処理の仕方が、各車、各ドライバーの仕上がりの目安のひとつにしている。

 

テレビカメラのアングルはクルマを後ろから捉えているので、リヤエンドの挙動がよく分かる。ふらつくことなく、ここをキュッと切り返して曲がっていくクルマは、仕上がりがいいと見てる。

 

逆にフロントが入っていかなかったり、何度も修正しているような挙動を見ると、セッティングが決まってないなと思ったりする。

 

単にクルマの速さを予想するだけじゃなくて、ここのコーナーをうまく立ち上がっていくクルマの挙動はとても気持ちがいい。こういう姿を見れるだけでもレーシングマシンには心踊らされる。素晴らしい。

 

あとは、12コーナーのアスカリコーナーからから14コーナーのセナコーナーまでの左左右の一連の流れ。ここがスムーズにいっているクルマは、セッティングも決まってきていると見る。決まっているクルマはスピード感がまるで違う。

3コーナーはこのコースの中でもかなりの急減速ポイント。ドライバーのテクニックとクルマの仕上がりで左右されるところ。全周回できちんとまとめられるドライバーは意外と少ない。

実質アクセル踏みっぱなし区間が多いコースなので、中だるみするときもあるが、新しいシーズンの始まりのワクワクがそれを打ち消してるグランプリだ。

 

さあ、いよいよ今日から開幕するF1オーストラリアGP。じっくり味わうように楽しみたい。

 

 

F1 2016シーズンの新予選フォーマットは改悪?

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野球とは違うスポーツ

F1は、例えば野球のように逆転し、逆転され、というような派手な展開を期待してはいけないスポーツだと筆者は思っている。
 
それは、90分のほとんどが0対0で、均衡が破れないフットボールのような展開が普通。だからグルグルコースを回ってるだけとか、パレードとか言われたりする。
 
では何がおもしろいのか? 言うなら、こう着状態の中で起こる一瞬のきらめきや輝きを期待するスポーツということだろうか。なかなか起こらないことだから、オーバーテイクが起こったときには心が沸き立つのだ。
 
希少価値との遭遇。筆者にとってF1とはそういうスポーツだ。
 

誰かが独走状態であることは、どんなスポーツにとっても望ましくない。でも、このスポーツにおいては往々にして起こってしまうことでもあって、ファンはそのことを知っている。一強状態だったしても人々の強い興味を惹くだけの力があるスポーツなのだ。

 

寝耳に水の変更

なんでそんなことをわざわざ言うかというと、2016シーズンのスポーティングレギュレーションに大きな変化があるからだ。そのうちの一つが予選フォーマットの変更。

 

これまでQ1からQ3まで段階を分け、生き残り形式でグリッドを決める予選に、時間的制限の要素を追加して、よりサバイバル感を増した形になる。

 

こんなルール変更計画が進んでいたなんて、まったくノーマークだっただけに、かなり驚いた。

そして最初は変更の内容の意味がよく理解できなかった。

とても複雑になりそうな予感。

 

2000年代初期の予選暗黒時代を経てできた前フォーマットは、エキサイティングなグリッド争いを取り戻せていた。これといって問題はなかったはず。
 
どうして、いま変えることにしたのだろう?
 

景気対策の一環

これも昨今のF1人気回復対策かと思うと、とても残念な気持ちになる。
予選に今以上の不確定要素を盛り込んで、決勝を少しでも「普通じゃない状態」に操作しようとしているということだ。
 
そういうことが逆効果であることを、どうして理解しないのだろうか。
 
ファンはスポーツに人工的なニオイ感じると離れていくものだ。これはどのスポーツに対しても同じ。スポーツには純粋さが要求される。だから人はスポーツに熱狂するし、贔屓のチームが勝てば嬉しいし、負ければ悔しがる。
 
このスポーツに影響を与えられる人たちには、もっとよく考えてほしい。
いや、あまり考えないで、普通に一人のファンとしてこのスポーツを見てもらうだけでいいのかもしれない。人にツクラレタ見どころに何を思うのか。
 
昨シーズンのマクラーレン・ホンダの降格グリッド数や2014シーズンの最終戦ダブルポイント制に見られるように、おかしなことが起こり続けているF1。下手にテコ入れをすることなど考えずに、成り行きに事を任せるのが一番良いのではないのか。
 
このスポーツを運営する人たちは、ただドライバーやチームが全力で戦える環境を提供してあげればいい。
 
明日3月18日から、今年もF1開幕する。