解説者は予想するのが仕事じゃない
静かなF1放送
静かだな、と感じた。
でもこれは表現が正確じゃない。
よく聞こえるといった方が正しいか。
初めてこの目で2016年の新車が走るのを見る機会だったから集中していたせいもあるかもしれない。でも、このレースで最初のチームラジオが放送されたとき、そういえばこれまでまったくラジオが入らなかったな、と気づかされた。
2016シーズンの大きな変更の一つである、ピットとドライバー間の無線の制限。この規制のおかげで、やたらめったらドライバーの訴えやピットからの指示といったチームラジオが放送される機会がなくなった。
解説陣が話すのを止めているとき、サーキットの生音が耳に入るようになった。
ブレーキングでタイヤが軋む音やドライバーのアクセルワークに反応するPU音、リカルドが通過したときに観客が沸く音。
それらはすべて筆者にライブ感を与えてくれた。
そのことがきっかけで考えたのはモータースポーツのテレビ解説に関して。
解説なしでレースを楽しめる?
モータースポーツをテレビで観戦するとき、解説はとても重要だ。
普通では知りえない情報を提供してくれることで、視聴者に観戦に幅と深さを与えてくれ、おもしろみが増すからだ。これはモータースポーツに限らずどのスポーツでも言えること。
一方で、解説付きの観戦の仕方に我々が慣れ過ぎてしまっているのではないか。ありのままのF1を楽しめなくなっているのではないだろうか。そんなことが頭をよぎった。
日本のF1放送が始まって30年。
放送開始当初から川井一仁氏のマニアックな解説を母乳にF1ファンは育ってきた。
加えて、90年代中盤以降はF1が、より戦略的なゲームに成長してきた。
それだけに、データに裏付けられた川井一仁氏の解説は度を増していった。
最近では彼のおかげでレース前から結果が分かるようになってしまった。マシンの性能、特性、タイヤという要素があればレース展開も、順位も予想してくれる。視聴者は彼が予測することが正しいかどうかの証人にさえなればいいわけだ。
実況の小穴氏やもう一人の解説者片山右京氏がちょっと的外れなことを言うと、「ナニイッテンスカ?」という反応をし、彼のデータに裏付けられた正しい推察を押しつける。言葉の裏にある「ウキョウサン、アナタ モト ドライバー ナンダカラ、ソレクライ ワカッテヨ」を感じざるを得ない。
解説者じゃない。予想屋だ。
そんな解説に支配されているレース中継では、もはやレースは見られない。
順位だけが大事なんじゃない レースが見たい
赤旗の後、セバスチャン・ベッテルが勝てないことを指摘するよりも、プレシーズンテストでスーパーソフトを試してきたベッテル・フェラーリと同じくテストでミディアムでひたすら走り続けたロズベルグ・メルセデスがどうなのかを教えてほしい。
誰が、何周目にピットインして、誰の後ろに戻って、どういう戦略だから、このレースは何位でゴールするなんてことよりも、画面に映ってないドライバーの走りや順位争いをカバーしてもらいたい。
ファン自身が想像力を働かせられて、ファンがレースそのものを楽しめる手助けがほしい。
一般の人たちの想像を超える乗り物、F1。想像を超えるからこそファンは惹かれる。
レース結果を先読みすることが魅力を伝えることにはならない。一般の人たちには想像もつかない「すごさ」を魅力として伝えてもらいたい。
F1が人気回復のために試行錯誤を繰り返し、いくつも対策を試みている。テレビは世界中のファンとこのスポーツをつなぐ大事な役割を担っているんだから、その自覚を認識して、もっともっと一生懸命考えてほしい。